店長かじたく 救命胴衣販売にかける想い 海の男のつぶやき 2012年11月08日 店長かじたく 救命胴衣販売にかける想い 「救命胴衣があったら、もっとたくさんの人が助かったと思うよ」 親戚のかおりちゃんはまっすぐ僕の目を見つめてそう言いました。 まだ震災の傷跡が生々しく残る2011年5月。 店長かじたくは被災した親戚の手伝いをするために妻と共に訪れた仙台で、奇跡的に助かった親戚がささやかな歓迎会をしてくれました。 お互いが近況報告を終えて、震災の時の話を聞いていた時、僕がインターネットで救命胴衣を販売している事を話すと彼女はそう言いました。 「車の屋根に掴まって流されてた女の人、振り落とされた後2回水面に顔を出したけど、3回目沈んだらそれっきりだったよ」 2011年3月11日は、我々日本人にとって決して忘れることの出来ない日になりました。 東日本大震災。 大地震の発生後に押し寄せた津波によって、多くの人々の尊い命が失われました。 あの日、店長かじたくは被災地から遠く離れた広島で、災害の第一報を知りました。 テレビから繰り返し流される津波の映像。 車が玩具のように流され家が簡単に押し潰されていく様は全く現実味がなくて、どこか映画の世界のような気がしていました。 「うわぁ。エライことになってる」 確かそんな感想を口にした気がします。 テレビ画面が上空からヘリコプターで撮影しているシーンに変わりました。 何台もの車が迫り来る津波から逃れようと、田んぼの中の道を走っていました。 画面の右下から押し寄せる津波。 車は画面上の方へ逃げようとします。 ですが道が混んで思うように進めません。 中には道を走るのを諦めて、田んぼの中を走る車もいます。 ああ、今この瞬間に命の危険が迫っている人がいるんだ! そう感じた瞬間、画面に写っているすべての事が、リアルに自分の中に流れ込んできました。 逃げて! 願いも虚しく津波が逃げている車を飲み込もうとしたその時、画面が津波の進行方向側へ(画面の上方向へ)動きました。 その瞬間を見せないようにとのカメラマンの配慮だったのでしょうか。 おそらくあの車に乗っていた人たちは津波に飲み込まれたのでしょう。 辛さに胸を締め付けられながら、僕はもし救命胴衣を着ていれば助かるのではないかと考え続けていました。 震災後、防災用としてたくさんのご注文が殺到しました。 ですが、心のどこかに震災特需で金儲けをしても良いのかとの思いがくすぶり続けていました。 人の不幸を利用しているのではないかと。 ですが、GWの休みを利用して何か役に立てたらと思い訪れた仙台で、震災を体験した親戚が僕の背中を大きく押してくれました。 悲劇を二度と繰り返さないために、自分に出来ることは何だろう。 もし再び同じような津波に襲われた時に、一人でも多くの人が助かるために、自分に出来ることは何だろう。 【一人でも多くの人のもとに救命胴衣を届けること。】 そう思いました。 店長かじたくは自分に3つの使命を課しました。 救命胴衣が家計の負担にならないよう、可能な限り安価であること。 きちんとした性能が裏付けられていること。 その2つを満たす救命胴衣を一人でも多くの人に届けたい。 そして最後の1つは、 救命胴衣を着用すれば、失われずに済む命がある。 ということを一人でも多くの人に伝えること。 多くの人に救命胴衣を備えていただけるよう、頑張ります。 PR